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遺却

日記を書くという行為は、内省に適しているように思う。

混同されるかもしれないけれど、私は内省と反省は違うと思っている。どちらも自分の過去の言動や在り方を省みることであるけれど、内省は自己観察であって、結果的に反省をすることがあっても、もっと前向きなものだと解している。誤解のないように、そして自己への戒めとして先に記しておく。

先日の雨の日からまた珈琲癖がついてしまった。こうして夜中に言葉を綴るせいかもしれない。そろそろ「せめて牛乳を入れなさい」と空から声が降ってきそうなので帰りがけに牛乳も買ってきた。珈琲用のミルクと違って牛乳は温めないと珈琲の温度が下がってしまうので、レンジで少し加熱してから注ぐことにしている。帰宅途中でメープルシフォンケーキなるものを見つけたので、散々迷ったあげく、1ピースだけ購入した。添えるための生クリームを探して追加購入。毎度のことながら食べ物に対してひと手間を惜しまない私は、どれだけ食い意地が張っているのだろう。

以前「優芽の樹」の記事にも書いたけれど、約2週間後に手術の決まった母から紅茶のシフォンケーキを頼まれたことがある。あの記事は母が亡くなって半年ぐらいで書いたもので、まだ上手く消化できない想いを言葉にして昇華しようとしていた気がする。そのせいかかなり不安定で、読み返すと痛々しい程の悔恨がみてとれる。ずいぶん感傷的だなとひとごとのように思うけれど、あの感情は紛れもなく私の中にあったものなので、それはそれで必要だったのだと思うことにして消すことはしないでおく。

当時すでに古すぎて製菓には全く向かない自宅オーブンをなだめすかし、2度焼こうとして2度とも失敗した。結局実家には持参できなかった。「また今度」という約束は宙ぶらりんのまま今に至る。最後は小さな親子喧嘩をして帰省が終わった。

前日から母の元に駆けつけた妹弟と違い、仕事を言い訳にして手術時間ギリギリで駆けつけ、たいして話もできずに見送ったあの日、母は手術が終わってから1度も目覚めないまま亡くなった。約束を果たせないまま亡くなってしまった。今日会えた人と明日も会えるという保証なんてどこにもない。「また今度」が必ず訪れるとは限らない。未来の約束が果たせるのは当たり前ではなく、限りなく幸福なことなのだとあの日母に教わった。最後に見た、手術室のドアを抜けていく母の顔が笑顔であったことだけが救いとなっている。

最後の頼みを聞いてあげることができなかったという罪悪感で、最初の数年間は食べることもできなかったシフォンケーキ。今は美味しく頂けるけれど、やっぱり自分で焼く気にはなれていない。新しいオーブンを購入してもなお、そのうちそのうちと思いながら気がつけば6年も経ってしまった。もはやトラウマになっている気もするけれど、食べられるようになっただけでも進歩だよなーと誰に対してなのかわからない言い訳をしながら、いまだなんとなくそのまま放置している。ジャンプの前に必要な前屈のように、シフォンケーキと向き合うキッカケを探しているだけかもしれない。

人は忘れる生き物なので、不可逆的な時の流れの中で記憶を徐々に薄れさせていく。その喜びや痛みを忘れないようにきつく縛り付けたとしても、掬い上げた砂が指の隙間からこぼれ落ちていくように記憶は風化され、美化され、記憶の彼岸に格納されてしまう。それは時に寂しいと感じることではあるけれど、だからこそ人はまた1歩を踏み出すことができるのだと思っている。その感情を忘れたわけではないけれど、しがみつくわけにもいかない。

かつて歩いてきた過去の中の事象全てにおいて、強烈な感情を当時のまま思い返すことができたとして、それを忘れずに抱えて生きていくとして、人はそれに耐えられるだろうかと思う。喜びに満ちた至福のひとときと、悲しみや苦しみに喘ぐ惆悵の記憶を当時のまま鮮やかに思い返せるとして、清福な思い出は怨毒の感情に勝ることができるだろうか。溢れる感情に溺れて身動きが取れなくなってしまうのではないだろうか。

「記憶や感情を徐々に忘れていく」という機能を失ってしまったとしたら、人としての他の機能まで奪われてしまう気がする。水は流れるから清洌でいられるのであって、留まってしまったとたんに濁り、澱み、腐敗していく。当時の感情に留まっていたら、結局はその記憶も感情も心まで澱み、変質してしまうのではないだろうか。忘れていくことは悪いことばかりではないと思う。少しずつ擦り切れていく記憶のおかげで、私はまたシフォンケーキが食べられるようになった。きっとそのうちに焼くこともできるようになると思っている。
いつかきっと。


忘れることを人間に標準装備してくれたとするなら神様はけっこう優しいと思う、と誰かが言っていたのを思い出した。確かに、私もそう思う。



★紅茶のシフォンケーキ12,29★
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