FC2ブログ
QLOOKアクセス解析

左利きは右利きより寿命が9年短いらしい。

それはなんの呪いだろうかと考えて、確かに世の中の仕様はえげつないほど右利き用にできていることを思い出し、体にも心にも負荷がかかっているということかと妙に納得する。呑みの席でそんな話が出ると必ずといっていいほど、どこが?何が?と返されるのだけれど、「それが右利きだということだよ」という言葉を投下して笑ってしまう。言葉を集めてあれやこれやと論うことはできるのだけれど、生まれてから付き合っている利き手を今更変える必要性自体をすでに感じてはいない。

酒好き、酒飲みを左利きともいう。大工が「のみ」を持つ手が左手であることから「飲み手」にかけて酒好きとは、よく考えるなぁと思ったのを憶えている。先人たちの考えた言葉遊びは嫌いじゃない。猥雑なものも含めて時に粋だなぁと思ったりする。今ならネットスラングのようなものだろうか。媒体が変わるだけで今も昔もあまり変わらない。私は左利きだが左利きではない。…連ねるとなんのことやら。

通常は左利きと聞くと、人は器用であったり芸術に優れていたりという、どちらかというと憧れるに足るイメージを持つらしい。実際に私はクラスに1人はいる「絵が上手いと言われる子」であったし、「なんでも器用にできる子」と思われていたようなので、今まで1億回以上言われた気がする。「限定」という言葉に商品の価値を底上げする心理が働くのと同じように、単なる稀少価値的な意味合いで羨ましいと言われることもあるように思う。

まだ幼稚園に行くか行かないかの歳の頃、練習のために私の書いた文字をはじめて見た母が感じたのは焦りだったという。母の手本を横に置きながら練習した自分の名前は、全くといっていいほどでたらめな文字に見えたらしい。何度書いても同じように書けず、私ほどネットが簡単にできる環境にはいなかった母がどこぞの伝を頼って調べたのか今となってはわからないけれど、有名な誰かに確認したその文字は「逆さ鏡文字」というものだったと言われた。

逆さ鏡文字は、文字を合わせ鏡のように反転させ、さらに上下を逆にするというもので、器用なのか不器用なのかわからないその不可思議な文字を目の当たりにして、「この子の目に世界はどう映っているのだろうと思っていた」と笑って話してくれたことを思い出す。笑い飛ばしてはいたけれど、当時ははじめての子に、なにかしらの障害を疑っていたのだろうと今でも密かに思っている。

私の親の世代までは「左利きは矯正するもの」という慣習が根強く残っていたらしいけれど、私の子供の頃はすでにその慣習が薄まってきた時期だったと思う。小学生の頃はクラスに左利きが4人ほどいたし、それを咎める大人はいなかった。ただどの世界にも前時代的な人はいるもので、私がまだ小学1年のころ「お箸を持つほうが右、お茶碗を持つほうが左」という言い回しで左手と右手を教える教師も存在していた。

あれは確か運動会のための練習だった。見事に左右を間違える私はクラスの誰よりも真剣に耳を澄ませてその声を聞き、号令に合わせて右手と左手を挙げたけれど、けっきょく1度も合わずにその日を終えた。他にも左利きがいたにもかかわらず、合わないのは私だけだった。何故自分はできないのかわからなくて、悔しさと恥ずかしさで混乱したことを憶えている。

母に相談してはじめて自分が左利きであることを知った。知っていた「左利き」という自分をはじめて意識したといったほうが正しいかもしれない。自分ではどうしようもない理由であったし誰のせいでもないのだけれど、私と友達は違うのだと強く意識した記憶。それから寝るまでの間、真剣に考えて導き出した答えが「お箸を持つほうが右、といわれたら左、お茶碗を持つ方が左、といわれたら右」であった。今思えばかなりテンポは遅れがちだったけれど、この回りくどい呪文を編み出してから毎日唱えて何度も何度も練習を重ね、こっそりと友人たちに紛れ込んだ。

いまだに左右を咄嗟に判断するのが苦手なのはその頃の記憶のせいかもしれないと思うことがよくある。道案内をするとき、左右を人に説明するとき、今でも私は利き手をぎゅっと握りしめてしまう。こっちが左、と言い聞かせるように。四角い画面の向こう側で、他人には些末な、でも当人にとってはとても重要な命題を抱えて惑う人の微かな悲鳴を見つけるたびに当時の自分を思い出す。

そういえば人の世では人口の10%が左利きだそうだ。戦争があっても人口が増えてもこの比率はほぼ変わらないらしい。この話をどこかで聞いたとき、まるで「働き蟻の法則」のようだと思ったのを思い出した。全体の2割の働き蟻が残り8割の食料を集めてくるという働き蟻の法則。実際はよく働く蟻を含めた全体の8割しか働かず、2割はずっとサボっていて、よく働く2割を間引くと残りの8割の中から自然と2割が働き蟻に変わり、2割はやっぱりサボったまま。でもサボっている2割を集めるとその中から2割が働き蟻に変わり、全体の8割は働き出すらしい。自然の作り出す不可思議な法則は時に不条理で人間ごときに解明できないところが哀しくも面白いのだけれど、常に10%の左利きは働き蟻だろうか、それともサボり蟻だろうか。

信頼に足る有能な人物を「右腕」というので「左腕」は?と調べたことがあるが見つからなかった。「右」という字には「優れたもの」という意味もあるのだけれど、右が上座であった時代に右の理屈に合わせるのは、右利きが多数を占めていたためではないだろうかと思っている。すでに左利きということは私のアイデンティティの一部になっていて、それを負に思うことはないのだけれど、どうやら私は手だけではなく、耳も目も左利きらしいとわかったときは少なからず驚いた。

左利きは右利きより寿命が9年短いとするなら、目も耳も利き手も左の私は20年ぐらい寿命が短いのではと思うのは短絡的すぎるか。それが私の寿命であるとするなら、それはそれで仕方が無いのかもしれないなとも思う。それにしても私は人生の中でどれだけ左に頼って生きてきたのだろう。
私の相棒は左。絵も文字も料理も、私の好きなことは全て左手が紡いでくれるものだ。

私が信頼に足る有能さを表すなら「左」ということになるのかもしれない。



関連記事

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。