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献杯


今日は偲ぶ会だと、彼が週末に言っていた。

昨年の5月、GW明け。彼の慕っていた上司が急死したと知らされて、珍しく落ち込んでいたのを思い出す。40代半ばの突然死。1部上場の企業の中でも、有能で出世頭であったK氏の訃報はあっという間に駆け巡り、仕事先では過労死では無いかと囁かれていたらしい。家族の意向で葬儀は身内のみで行われたため、彼が知ったときには既に通夜も葬儀も終わっていた。

逢うなり酒が飲みたいという彼に付き合ったのだけれど、外呑みが好きな彼が珍しく家呑みを希望したので、簡単な酒の肴を用意し、彼の思い出話に寄り添ったあの日からもう1年と3月が過ぎていた。あの日、酒豪を自負する彼が顔を真っ赤にして酒を呑みながら、ぽつりぽつりと静かに語るたびに心が透けて見える気がして、静かに沈んでいく夜に2人で献杯をした。

苦しいとか寂しいという感情を上手く隠して生きる癖がついた男の人は、心の機微をあまり話してはくれないものだけれど、薄く笑う彼の口の端に、紡ぐ思い出の断片に、寂しさと小さな後悔が滲んでいた気がする。常に物事にあまり動じない彼のあんな顔を、あんな塞ぎ込んだ姿を見るのははじめてかもしれない。酒をつぎながら内心で酷く驚いたのを憶えている。

彼の語る生前のK氏は、まだ彼の中で生々しいほどに生きていた。かけてくれた言葉と心を思い返していたあの日、「泣きはしないよ」と笑っていた彼はきっと泣いていたのだろう。現実に涙を流すことができなくても、間違いなくあのとき、彼の心は泣いていた。

仕事嫌いで飄々と生きる彼が入社当時、すでに有能で雲の上の存在であった上司を、いつも怒られていたんだよと零しながら心の中で涙を流すほど慕っていたのだと感じて、そのことになぜか胸がいっぱいになった。きっと仕事を超えてあまりあるほど素敵な人だったのだと思う。あの彼がそこまで慕うほどに。それでも結局私は何も言えず、ただK氏を偲んで寂しそうに笑う彼の思い出話に付き合っていただけだった。

私はその方を知らないけれど、心に刺さる小さな棘のような後悔はよく知っている。最後に逢った遠い佳日、もっと飲みに誘えばよかったと、もう少しまめに連絡を入れれば良かったと、悔やむ気持ちを笑い飛ばしながらあっという間に酔いの回った彼は、そのまま小さな寝息を立てて眠りについた。

もし私がこの先、私が突然彼の前から姿を消したら、やっぱりこんな顔をするのだろうか。積み重ねてきた思い出を振り返ってくれるだろうか。今日のように小さな悔恨や寂しさを抱えて、泣くこともできずに杯を重ねるのだろうか。それとも夜に赦されながら涙を流すのだろうか。どこかでそうであったらいいなぁと想う私は、なんて醜悪で傲慢なのだろう。

そんな私の気持ちが透けて見えたのかもしれない。「YUKAは死なないでね」と最後に小さく呟いて眠りについた彼に驚いて、やっぱり彼にあんな顔をさせるのは嫌だなと思う。私の不謹慎で傲慢な想いを吹き飛ばしてしまうほど、彼は悲しんでいた。

あれからずっと、通夜にも葬儀にも参列できなかった淋しさを抱えていた彼は、K氏を慕う有志で偲ぶ会が開かれると聞いて参加を決めたと教えてくれた。地元を離れて呑むことが好きではない彼が、珍しく電車を乗り継いで参加する。

「いってらっしゃい。気をつけてね」とLINEをして始まった今日が終わる。きっと今頃、多くの思い出を抱えた仲間と呑んでいるのだろうと思う。この夜が明ければまたいつもの日常が始まり、尊敬する上司との過日を思い出に閉じ込めて、彼らの日常は続いていくだろう。


今日は酒の力にあがらわず、思い出の呪縛に逆らわず、その力を借りてきたらいいと思う。人前で泣くことのできない男の人たちに、泣くことのできる力を貸して欲しい。静かに満ちていく夜に赦されてほしい。そして綿々と想いを語って安らかであることを願ったあとは、それらを酒に流して呑み干して、彼らの心に抱えている憂いが少しでも晴れることを願う。


彼が慕うK氏と彼のために、今日は私も献杯を。




5.10 2人で献杯を

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向日葵


いつだったか、母は私の誕生日に小さな向日葵を花束にして贈ってくれたことがあった。

私の年の数の向日葵を束ねた花束は、黄色と黄緑色の包装紙で綺麗にラッピングされて、なんとも明るく豪華だったのを憶えている。「陽に真っ直ぐ向かって夏の日差しにも台風にも負けない向日葵は、私の中での貴方のイメージ。自分の信じることに向かって強く真っ直ぐ生きていこうとする貴方が、時々羨ましい」そう言って笑っていた。「貴方のような生き方を、私もしてみたかった」そう言われて、そんな風に思っていたのかと内心ひどく驚いた。

そんな母は自分を「カスミソウ」に例えていた。庭で薔薇を育て、薔薇をこよなく愛していたはずなのに、娘を向日葵にたとえ、自分をカスミソウに例えた母の中に、どんな思いがあったのだろうと思うことがある。その意味を母は語らなかった。だから私も聴かなかった。今となっては聴くこともできないのでその真意はわからないままだけれど、聴かなくてもわかる気がしている。たぶん当時の私もそうだったのだろう。

次に訪れた母の誕生日、私はカスミソウを花束にして贈った。花屋のカスミソウを全て買い占めて、両手で抱えるほどの花束にして。薄桃色の包装紙に包まれたカスミソウは繊細で可憐なのに豪華で、淡雪みたいに美しかった。「お母さん、カスミソウも素敵ね」そういった私の祝いの言葉に泣き笑いした母の顔を、私はきっと忘れない。

それぞれの生活が滞りなく流れているのを、どこかで見ているだろうか。母が逝ってしまってから、家族で集まる機会はめっきり減ってしまった。それでも、それぞれが思い出したように海へ向かう。波のまにまに、面影を探して語りかけたくなるのかもしれない。生きる時代も生き方も母とは違う私の人生だけれど、この先待ち受けている様々な事象の中でも、陽に向かって真っ直ぐ顔を上げる向日葵のようで在りたいと、切に思う。


夏を迎えて風に揺れる向日葵を見るたびに、私を向日葵のようだと言った母を思い出す。
いつの間にか、向日葵は母を想う花になった。

今年もお盆が過ぎていく。
また来年。



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憧憬


私の母は少し変わった人だった。

家と幼なじみと両親が世界の全てだったころは気付かなかったけれど、今思うとなかなかユニークな人であったと思う。私は幼いころ「魔女」になりたかったのだけれど(箒に乗って空を飛びたかった)一時期、私は母が魔法を使えると信じて疑わなかった。これはたぶんに母のせいでもある。

母は自然の力をまるで自分が動かしているかのように語る癖があった。確かに出先で雨が降っても、まるで母を避けるように雨が止んで濡れることが無かったし、暑いと言えば空に向かって風を呼び、母が怒るとそのあと地震が起きた。嘘や隠しごとをしても全てお見通しで、子供の中でのちょっとした冒険や悪戯をするときには、どこにいても母が見ている気がしたものだ。

今なら子供の幼稚な隠しごとなど手に取るようにわかるだろうと思えるし、偶然でしょうと片付けられる事象なのだけれど、子供からしたら驚きの連続だったわけで、母もそれを肯定して憚らない人で、もうなんだか本当に怖くて憧れていた。そう。私はどこかで母に憧れていたのだと思う。

いわゆるお嬢様育ちの母は、服も趣味も身の回りのものまで全てにおいて、母の感覚にかなった美しいもの、品のいいものだけを好んで揃えていた。無駄なものは買わなかったし、もともと持っていたものも多かったけれど、当然そういうものは高価でもあったりするわけで、当時の父が平均より少し稼ぎが良かったとしても、傍目にはかなり散財する女性に見えていたのではないかと思う。

思い返せば、その美意識を対人関係にまで求めるような人だった。間違っていることをそのまま曖昧に飲み込むことのできない、どこか潔癖な人でもあったので、私たち子供を通しても一般的なお母さん方と友人関係が築けなかったのだろうなと今ならわかる。誰かに傷つき、何かに傷つき、その痛みに震えながら夜中に何度か泣いている母の姿を見かけたことがある。

そんなときの母の話し相手はまだ幼い私だった。当時の父は休日も仕事に奔走していて1/3は日本にいなかったし、まわりに愚痴を零せる友人もいなければ、長姉の私しかいなかったのだろうと思う。まだ年が2桁に届かない私に、母はいろんなことを語ってくれた。当時の私はそのほとんどを理解できなかったけれど、辛いこと悲しいこと、嬉しいこと楽しいこと、思い出話に母の想う世の中の理まで、まるでお伽噺のように聴いていた。

だから私は母の昔の恋バナまで知っている。今考えると親の恋バナまで知っているというのは、なかなかシュールだなぁと思うけれど。当時は一応父には色々内緒で、その「内緒」ということがまた大人扱いされている気がして、なんだか嬉しかったのを憶えている。私は母の話を聴くのが好きだった。私は母を魔女だと思っていたのだから。綺麗で器用で、いい香りのする母は私の憧れだった。

私の羨望を集めていた母は、現実ではいつもひとりだった。朗らかに笑い、草木を愛し、同じように子供たちに無償の愛を注いでくれていたけれど、なぜか母は「いつもひとりだった」という印象が強い。当時の母は食事の間中ずっと側にいて色々な話もしていたのだけれど、一緒に食事をとることはほとんどなかった。それどころか、あの頃の母が食事をしている姿を思い出せない。いつも珈琲を燻らせたカップを両手で持ち、それを少しずつ飲みながら子供たちの1日に起きたあれこれを静かに微笑んで聴いているような人だった。

「ごはんを食べないの?」と1度だけ聴いたことがある。母は霞を食べているから食事はいらないと笑っていた。仙人じゃあるまいし、そんなわけあるかっ!と今なら突っ込むところだけれど、当時の私たちは「お母さんならあり得る」と妙に納得していたように思う。だから2度は聴かなかった。それで納得させてしまうところが母らしいといえば母らしくて、母の魔女説、母の神様説は、今でも家族での思い出話になっている。

バスに揺られているとき、急ぎ足で街を通り過ぎるとき、カフェで音楽を聴いているとき、何気ない日常の中でふっと当時の記憶が蘇ることがある。そういうときはいつも、記憶は無くなるわけでは無く、私のどこかに格納されているのだなぁと思う。母が語ってくれた言葉の断片は時の流れに擦り切れて、ほとんどがその原型を残してはいないのだけれど、それでも私の中に残っていて時々意味も無く蘇ってくるので困惑してしまう。どこかで母が見ているのではないかという気分にさせられる。

思春期を迎えて反抗期を通り過ぎた私にとって、既に母は憧れではなくなっていたし、どこか反面教師とも思ったりして、かつて魔女に憧れ、同じように母に憧れていた私は、母とは違う生き方を選び、どっぷりと現実社会で生きている。そんな私を心配しつつ、母は好きにしなさいと笑っていた。

あの頃の母は少し病んでいたのではないか。そう思うことがある。人が好きで、でも人に対してどこか不器用だった母は、毎日小さく傷ついていた。小さな傷が積み重なって苦しんでいたのだろうと思う。幼い私はそこに気づけなかったけれど、今ならもう少しましな声をかけてあげられただろうか。


どうかな。
やっぱり何も言えず、黙って隣に座っているだけかもしれない。




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僥倖


台風のため、明日の夕方まで急にぽっかりと予定が空いた。

帰宅後いつも通りシャワーを浴びていつも通りPCに向かい、メールをチェックしつつ今これを書いている。明日の朝の交通は気にしなくてもいい、という安堵感から発泡酒のプルタブを折った。今はまだエンジン音と水の跳ねる音が聞こえてくる以外は案外静かなもので、時折強い風が吹き付けて何かがカラカラと音を立てている。

夜を終えるのはまだ早いと雨が囁くように窓を叩く。窓外にしな垂れる雫が部屋の灯りに照り輝き、その雨声を聴きながら少しずつ夜が沈んでいく。「何かをする」のでは無く「何もしない」という甘美で贅沢な時間。仄かに見える時の流れの中で、とりとめのない思考に沈み、仮想の街を歩く空想癖が創作に繋がっていく。
私の自由はこうした夜の底に存在する。いい夜だ。

明日は何しようかなーと少し浮かれて、わくわくが風船みたいに膨らんでいたのだけれど、考えてみれば明日締め切りという案件が残っているし、休暇前にこなさなければならないもろもろが山積の状況では、結局仕事をせねば成らぬわけで、「何しようかなー」ではなく「何から手をつけるべきかなー」という状況だったと気付いてしまい、わくわく風船はあっけなく萎んだ。しかも夜間講義予定は健在で「あります」というわけで、完全休みではないことが判明して微妙に凹む。それでも僥倖には違いない。

今朝は「台風が関東上陸」とTVの中で声高に連呼していて、荒川が氾濫すると銀座まで水没するとか、帰宅時間は大混乱だとか、深夜と朝には交通機関が麻痺するとか、苛辣に脅され続けて家を出た。その時点では明日のために前乗りした方がいいだろうかと思っていたので、そこはもう有り難い限りなのだけれど、惨憺たる災害シュミレーション映像を見るにつけ、行くも行かぬも自己責任だぞと念を押されているようで、災害に遭う前から暗澹たる気持ちにさせられる。

こういう時は悲しいかな、社会に組み込まれている社会人というものは、仕事都合で外出しなければならないわけで(現代社会で「そんなもん休んじまえよ」と本気で豪語するような無頼漢はお引き取り頂くとして)勝手に休むという選択肢は無いに等しい。だから個人よりも企業に働きかけてくれないかといつも思う。

かといってみんながみんな本気で休むという選択肢を行使するならそれはそれで大混乱な訳で、今日も人の世の命綱と社会を回す仕事で奔走する方々に感謝して夜を終えよう。

お仕事の皆様、どうかお気をつけて。



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打上げ花火



遠くで花火の打ち上がる音がしていた。

身体の底に響くような音に惹かれてベランダに出る。ひゅるりと打ち上がる音、ぱっと花咲く音、そして微かに聞こえるぱらぱらと散りゆく音。確かにここまで聴こえるのに、目を凝らしても空は伯林青色の闇のままで観ることはできなかった。観に行きたかったなぁと少し感傷的な気持ちになる。まだチャンスはあるかもしれないけれど。

SNSには夏らしい動画が数多く上がっていて、打上げ花火もそのひとつなのだけれど、画面の向こう側で記録された花火は少し味気ない気がしてしまう。打上げ花火は、風に揺り流れてくる火薬の匂いや喧噪とともに、刹那的な光と音を直に楽しむ方がいい。

季節の風物詩をいいなぁと思いつつも、私はそれをうっかり逃してしまうことが多い。目的地まで高速をひた走るうちに、可惜目印を通り越してから「しまった」と後悔する感覚に似ている。1日、ひと月、1年と、時の流れは等しく同じはずなのに、子供の頃とは体感が全く違うように思う。ぼんやりしていると移り変わる季節に取り残されてしまう。

人はジャネの法則から逃れられないのだろう。でも科学的に解明されていないだけで、加齢に呼応してデッドラインへの加速装置が作動する仕組みがあって、実はDNAレベルで組みこまれているのではないかと思うことがある。だとしたらしかたないなと納得できるのに。

そういえば最後に逢ったのは5月だったなと思い出して、父に連絡を入れた。少し前に近況を尋ねるmailをもらっていたのだけれど、その時点でははっきりした休暇予定がわからなくて、そこには触れずにさらりと返信した。いつも待ち構えているのだろうかと思うほど父の返信は早いのだけれど、それだけ交流が減っているのかもしれないと思うと遣る瀬ない。世代的にmailが不得手な父のつたない文章から、約束を喜ぶ想いが透けて見えてなんともいえない気持ちになった。

そういう親の想いを私はすぐに忘れてしまうのだけれど、肺癌の治療を拒んで緩和を選択した父との時間はそう長くない。刻々と近づいてくる期日を後悔で終わらせたくないなぁと思う。せめてもう少しまめに連絡を入れよう。


ベランダから浴衣を着た人の流れが見えた。
振り返った今日が、彼らにとって楽しい思い出になっていることを密かに願う。



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矜持


「いい加減は良い加減」と誰かが言っていた。誰か忘れたけども。

私は自分をいい加減だなーと思っている。自分の中にある「いい加減さ」を認めている。「譲れない」部分に踏み込んでくる場合は、徹底して許容できる部分まで落とし込めるように話し合うのだけれど、それ以外はけっこう平気でいい加減だったりする。一線を越えない限りはどうぞどうぞと平気で譲れる。どうでもいいことに労力は割けない。それだけのことなのだけれど、だからいつも「いいですよ」と言ってくれると思われているならば、随分短絡的過ぎでは無いかと思う。

私の中では「どうしても譲れない」という線引きが明確にあって、仕事であってもそこだけはブレないように気をつけている。以前、打ち合わせの場で「そこは譲れませんよ」と絶対に引かない私を知ってびっくりされたことがあった。どうやら私は非常に沸点の低い、柔らかい人だという認識が広がっているようなのだけれど、誰にでも譲れないことがあるのは当たり前のこと。

もちろん最初は、というか今でも色々なことがあるし、憤ることも凹むことも多いけれど、こればかりは仕事なのでどうしようもない。だから「ここは言わなければいけない」と思うことを黙っていることはしない。拗らせてもいいことは無いので、タイミングを図ったり、笑顔を添えることは忘れないようにしているけれど。

失礼を承知で言えば、大先輩であっても自身の培った知識と経験に溺れて本質を勘違いしている方もいる。その場合、たいてい自尊心を満たすためだったりするので困る。数の力で、あるいは牽制という意趣返しで言うことを聞かせようとする、偏狭で妄動的な相手に迎合してはいけない。自身の矜持と根幹にかかわる部分は譲ってはいけない。そこを譲ってしまったらきっと色々なことがブレてしまう。それがわかっていて引くことはない。

当然相手にもそういう一線はあるだろうし、今までも引かないためにその場が険悪になったことすらあった。それこそ一回り年上であっても子供のいじめように無視をしてみたり、嫌がらせをしてくる人もいたりする。そういう場合、憤りつつも私はたいてい心の中で笑ってしまうのだ。底が知れる、そう思って。そんなときの私の笑いを冷静に想像すると、自分でもちょっと怖い。

だからといって自身が狭量な人間になってもいけないと思う。自分本位になりすぎていないか、仕事へのプライドと個人的な自意識や自尊心とを勘違いしていないか。意見を交わす前に私は必ずそのことを反芻する。人がひとりで考えうることには必ず限界があるもので、意見を交わせるということは喜ぶべきことだと思っている。自己は他者の中で確立する。自分の中に無かった意識や経験に共感できることも多い。

私は付き合いのある業界の先生方の中で、年齢的に言えば下から数えた方が早い若輩者なのだけれど、意外と好きに仕事をさせて頂いている。自意識と自尊心の高い方が多い世界でやっかいでもあるが、基本的に教え好きな方々なので助けていただくことも多い。これにはもう感謝しかないなーと思う。本当に。

私はどこに行っても器用に立ち回れると思われているのか、それを羨ましいと嘆く人も一定数いる。私のまわりには年齢や見た目のために侮られると嘆く人も数人存在する。若さは悪いことでは無いけれど経験不足というイメージや侮りを生むようで、一般的な仕事はどうかわからないが、仕事柄か武器にならないように思う。良かったと思うべきか、残念と思うべきか悩むところではあるけれど。

そういう人はたいてい、本人の実力以上に自尊心が高い。ある日の午後、泣くほど悔しいのだなーと見ていたことがあった。個人的には侮られてもいいじゃん、とは思うけれど。いやなら戦えば?とも思う。泣くほど苦しんでいる人を前にしてそう言い放つほど鬼では無いので黙っていたけれど。

自分の存在を守りたいなら、居場所を守りたいなら戦え。周りから「この人けっこう面倒くさいぞ」と思われるかもしれないけれど、面倒くさい人の方がいいと思っている。それが一線になる。自分が譲れない一線を矜持として持ち続けていられるなら、侮られたかどうかなどということは些末な事象にすぎないでしょう。泣けばいいし、悔しがればいい。それが力になることもあるし、力にしていけばいい。大丈夫。誰でもそのうち年を取る。


しなやかに、したたかに。これからもよろしく。



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