胸に去来する様々な想いに翻弄されて、
なかなか踏み出せないヒョヌと臆病な優奈のすれ違う想い。
野生動物並の「勘」を持つ、優奈の親友杏子が模索する「真相」と「思惑」とは?
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島での生活では、飲み水と食べ物の確保が最優先だった。
次にいつ崩れるかわからない天候のための、雨と風が防げる場所の捜索。
遭難して暫くした頃――
大きな岩が点在する西側の浜辺に、海に流れ込む水流を発見した。
その水流を辿って少し上流へ向かうと、予想以上に綺麗な小川であると発見して飲料水になりそうな真水を確保できた。
危険を考えて沸かしてから飲まなければならないという苦労はあるが、これで飲料水の確保が出来たと、全員がホッとした。
洗濯や洗いものはその少し下流域を使えばいい。
残っている物資を運び出すために傾いている客船に乗り込むのは危険だったが、食料調達としては一番確実だ。
幸い遠浅の海寄りに難破したので近づけるが、大勢で乗り込んでいる時にバランスを崩したら、客船の沈む渦に巻き込まれる可能性がある。
1度に多く運ぶことが困難なので、もう何度目かわからない捜索だったが、諦めるわけにはいかなかった。
効果があるかは別として、乗り込むのは水泳の得意なメンバーとし、予め必要と思われるものに優先順位を付けてリストにする。
日の出とともに作業開始と決めた。
優奈は食料品の優先順位についてジャンと再度打ち合わせをする。
捜索に出かける前、杏子はソンホに頼んでヒョヌと話をした。
「一度、話がしたかったから」
杏子はそう切り出した。
「何?」
「優奈のことで」
「…………」
「あの子、みんなが思っている以上に世話焼きなの」
「それは……わかる気がします」
「そのくせ、自分のことは後回し」
「…………」
「……中学の時、彼女の母親が亡くなりました」
「…………」
「……その頃、彼女の友人が随分荒れていて。遊ぶお金に困らないのをいいことに、柄の悪い人たちと付き合って……。
ある時、気の強さが災いしてタチの悪いチンピラに捕まったの。
そのままだったら、たぶんどこかの国に売られてたか、薬漬け。自業自得の末路が待っていた。
親にも見放されかけていたその不良娘を助けるために、優奈はほうぼう走り回ったらしくて。
彼女の熱意に根負けしたその娘の親が、最後は尽力して事なきを得たんですけど。
その間に、彼女の母親が亡くなったんです。
ゆっくりとお別れも出来なかった。最後の日、息を引き取る間際まで走り回ってたから。
お父様が海外赴任中ですぐには間に合わなくて、葬儀や親族の連絡なんかを、全部自分で準備して。
クラスメイトが訃報を知ったのは、1ヵ月以上も過ぎてから。
母親が大好きで、泣きたいほど辛かったはずなのに……馬鹿な子でしょう?」
「…………」
「……高校の時は、コンクールに出場する先輩のために、40℃の熱を出してるのに平気な顔して手伝って。
終わってから倒れたんですよ? しかも、迷惑掛けるからって、先輩たちが帰るまで無理して。
そんなことばっかり! ……あの子、いつも自分のことは我慢しちゃうんです。
だから、気を付けてないと無理しすぎちゃうんですよね」
「…………」
「ちょっと面倒な子なんですけど。これからヒョヌさんが、一番一緒にいると思うので、気に留めておいて頂けます?」
杏子はそう言うと、照れくさそうに笑った。
彼女がとても優奈を大切にしている、それが痛いほど伝わるような笑顔だった。
「わかりました」
「ホントに?」
「ええ、大丈夫」
「…………」
ヒョヌは杏子の眼をじっと見つめて、確認するように頷いた。
「僕も質問してもいいですか?」
「何かしら?」
「優奈マジックって、なんですか?」
「あぁ、あれね」
「ずっと、気になってて……」
「ふぅん。なぜ?」
杏子は意味深な視線を投げかけながら、躊躇するヒョヌの答えを待たずに話始めた。
「あれには二つの意味があるの。まず一つ目は……優奈の笑顔と声は、人を落ち着かせるのに抜群の効果を発揮する。
学生の頃から、クラスや部活で揉め事がある時は、いつも優奈が調整役で、男子も女子も不思議と説得されてうまくいったから」
「なるほど」
ヒョヌは、以前自己紹介を提案した優奈を思い出して、くすりと笑った。
「そしてもう一つ。嘘のつけない、真っ直ぐな澄んだ瞳……わかります?」
「……はい」
「あの榛色の大きな瞳は、彼女の感情に合わせて輝くから、男の人からするとかなり魅力的でしょ?
なのに本人にその自覚がないの。異性からの好意に無頓着過ぎて気付かない。
あの瞳に見つめられて、あの笑顔を向けられたら恋に落ちるわねって、昔はよく同情したんだけど。
好意があるかと思っていたのに、実は全くその気はない。勝手な勘違いですけどね。
愛情なのか単なる優しさなのか、女性はすぐわかるんですけど、男性にはわからない――。
で、結局遠巻きに高根の花扱い?
魔法にかかったみたいに、コロッとその気にさせるから『優奈マジック』
あれ、意識してやれたら、相当な高等テクニックですけどね。無自覚の歩く惚れ薬。歩くはた迷惑」
「…………」
「ヒョヌさんは、『優奈マジック』にはかかりませんよ」
「……どうしてですか?」
「どうしても知りたかったら、また今度。ちょっとは自分で考えて?」
「あ、はい」
「そうだ。この話をしたことは、あの子に内緒で」
もういつもの杏子らしく、艶っぽい視線で微笑んでいる。
「はい」
「仲いいんですね。ホントに心配しているのが、伝わってきます」
友情ですね、とソンホが声を掛けると、杏子は少し淋しそうに微笑んだ。
「……その不良中学生は、私」
「…………え?」
杏子は静かに微笑んで、唇の前に人差し指をあてる。
ケイタに呼ばれてくるりと振り返ると、何事もなかったように颯爽と歩いて行った。
杏子の顔に自然と笑みが零れる。
最初に――優奈に救助された彼の好意は『吊り橋理論』の一種かと疑っていた。
救助された時の彼の症状は、低体温症だろうとも思っていた。
以前、優奈に話した仕事の経験が、役に立ったと聞いている。
意識が混濁するほどの症状だったのならば、無意識に危険を感じたとしてもおかしくはない。
そこで優奈に出会った。
別に勘違いで恋をしてもかまわないが、恋ではなかったと後から言われても困るのだ。
だからこそ様子をみていた。
いつものように微笑んでいたヒョヌから読み取った感情は、たぶん大きく間違ってはいないだろう。
ふざけたような話し方をしたのに、話の裏にある意図に気付いたようだ。
通訳を通してで、言葉のニュアンスも本当の意味も、伝わったわけではないだろうに。
「勘のいい男」
杏子は、なんだか久しぶりに泣きたくなった。
~お節介解説~
『吊り橋理論』
カナダの心理学者、ダットンとアロンによって1974年に発表された「生理・認知説の吊り橋実験」によって実証されたとする学説。
実験は、18~35才までの独身男性を集め、渓谷に架かる揺れる吊り橋と、揺れない橋の2ヶ所で行われた。
男性にはそれぞれ橋を渡ってもらい、橋の中央で同じ若い女性が、突然アンケートを求め話しかけた。
その際「結果などに関心があるなら後日電話をください」と電話番号を教えるということを行った。
、吊り橋の方の男性からはほとんど電話があったのに対し、揺れない橋の方からはわずか一割くらいであったというものである。
揺れる橋での緊張感を共有したことが、恋愛感情に発展する場合がある――というもの。
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そうそう。
『事件や災害に巻き込まれる系』の映画やドラマは、必ず、最後に男女が恋に落ちている。
――なら、好きな人を振り向かせるのには、危険を共有すればいいんだな!
と、前向きにくだらないことを考えたのは、ここだけの話。
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