『杏子、ごめん。打ち合わせが少し長引きそう――』
小声で話す優奈の声が電話口で少し反響している。きっと化粧室から連絡しているのだろう。
「わかった。少しフラフラしてるから、終わったら連絡して」
そう言ってケイタイを切った。
仕事の打ち合わせのために、留学先から一時帰国していた優奈と久しぶりの買い物。
馴染みのレストランに入れた予約は、ランチにしては遅めの14時。あと2時間ほど時間がある。
本当は食事の前に優奈と寄りたい店があったが、それは後回しにすればいい。
食事をしながら旅行の話をして、それから買い物する方が効率的かもしれない。
銀座は久しぶりだ。
以前は当り前のように来ていた街も、このところご無沙汰になっていた。
それどころか、研修が始まって余りの忙しさに出掛けること自体が減っている。
今日は救急車のサイレンも聞きたくない。
せっかくだから見て回ろうと、伝票を手に取った。
マロニエ通りにある喫茶店から出て京橋方面に歩く。
細い通りに入ると喧騒が嘘のように静まり、小さな貸しギャラリーが並んでいる。
少し先に小さなギャラリーを見つけた。
ウィンドウから額に飾られた絵が幾つも見えてギャラリーだとわかっただけだけで、掠れた文字が刻まれた看板では、店名の判別も難しい。
年代物だからなのか、単にやる気のない店なのか。
絵を鑑賞する趣味は余りないのに、なんとなく足が向いた。時間潰しにはちょうどいいと思った。
「いらっしゃいませ」
外壁から想像するよりずっと上品な案内係が出迎える。
軽く会釈をすると、なぜか不思議そうな顔をしてすぐに奥へと入っていった。
「随分、商売っ気のないギャラリーね」
苦笑はしたが気にも留めず、そのままいくつかの絵を見て回ることにした。
とは言っても、狭いギャラリーではすぐに見終わってしまう。
買う気はない。
それなのに何となく去りがたくて、迷った挙句もう一巡見て回った。
「お客様――」
突然声をかけられて振り向くと初老の紳士が立っている。
彼は息を飲んだ後、泣き笑いの顔で私を見てから深々と礼をした。
「……ずっと、お待ち申しあげておりました」
何を言っているのだろう?
ここに来るのは初めてで、約束をした覚えはない。
記憶力に自信はあるが、紳士の顔にも覚えがない。
「私をご存知?」
父の知り合いかもしれないと思った。若しくは経済紙で知ったか。
煩わしいので今は極力避けているが、それでも父の絡みから写真が出回っていることは知っている。
「いえ、お譲様を存じ上げているわけではございません」
そう言いながら、その顔には隠しきれない動揺と歓喜が張り付いている。
ますますわけがわからない。
そう思う私の顔に不信感が浮かぶのを感じとったのだろう。
「これはこれは、驚かせてしまいました。ご説明いたしましょう。どうぞ、こちらへ」
彼はそう言うと奥に続く通路の方へ手を差し出した。
胡散臭いと思いながら、それでも無意識に足が動く。
そして通路に入った途端、案内を受けなくても行き先がわかる気がした。
ヒールの音に合わせて心臓が高鳴っていく。
目的は突き当たり手前の小さな部屋だと確信があった。
「これは――」
その部屋に入ると、今度は私が思わず息を飲む。
「この方は天眼太夫。傾城を誇った稀代の遊女でございます」
【花魁杏絵巻】
壁に貼りつけられた小さなプレートには、【花魁杏絵巻】と画題が付けられている。
「あなた様を、ずっとお待ちしておりました」
彼は私を追うように入ってきた。
だから声は後ろからしていたはずなのに、私は一瞬、その絵が語っていると錯覚した。
初めて入ったギャラリー、初めて逢う紳士、初めて見る絵画。
それでもそれが本当のことだと、私の勘がそう告げていた。
*****
紳士の昔話を聞き終わった後、ため息をつく。
昔からこの手の話はいくらでも聞いてきた。中には詐欺まがいの物も含まれる。
それに騙されるほど私も家族も見る目が無いわけではないから、騙されたことは一度もない。
掛け軸だの骨董だの絵画だのと、どこから集めてきたのかと思うような話は日常茶飯事だった。
そういうものに限って精巧につくられた話に合わせて文献や鑑定書まで揃え、完璧を期すものだ。
それなのにこの話はそのどれもが無い。話でさえ口伝のみの語り話。
それでも私の中で、それが真実だと告げている。
――これは、私の絵だと。
「この絵を買うわ。おいくら?」
そう告げると、その紳士は静かに首を横に振った。
「買う必要はございません」
「なぜ?」
「私どもはお預かりしていただけでございます。はじめから、あなた様のために」
そう言ってほほ笑んでいる彼の横で、私はもう一度その絵を見た。
騙すつもりであるなら良くできた話だった。
だが「買え」と言うならともかく「お金はいらない」では詐欺にもならない。
優奈の家も私の家も代々続く家系や由緒がはっきりしていて、まつわる文献も家系図も残っている。
ウチに花魁の出はいない。
輪廻も転生も信じているわけではない。
それでも「おゆな」に心当たりがあって、「鳴澤」や「九条」という名にも馴染みがある。
何より私の中に共感が沸き起こっていて、この話を理由も無く信じている自分がいる。
逢いに来たのか、呼ばれたのか。
では「陽之進」も「修衛門」も、どこかにいるのだろうか?
いつか出会うこともあるだろうか?
思わずそんな馬鹿なことまで考えてしまうほど。
暫く考えてから、いつまでも微笑んでいる彼に意地悪く問いかけてみる。
「もしこの絵の待ち人が私では無かったら、どうするつもり?」
すると彼は目を細めて大げさに胸を張り、得意げに語った。
「そうでないかどうかは、あなた様がいちばんご存じのはずでございます」
憎らしいほど、その通りだった。
突然バッグからくぐもった音が聞こる。
震えるケイタイを手に取ると、着信は優奈からだった。
「優奈、終わった?」
『終わったけど、今どこにいるの?』
その問いかけにギャラリーの場所を告げる。
優奈にとっても馴染みのある街だから、10分もかからずに来るだろう。
「ご友人のお名前は……ゆな様でいらっしゃいますか?」
遠慮がちに聞くその問いかけに、小さく頷いた。
「ええ。「優奈」よ。私の親友。彼女の名前は、鳴澤優奈」
彼の驚く顔が可笑しくて、笑いがこみ上げてくる。
そして何より優奈がどんな顔をするのか、それがとても愉しみだった。
FIN
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