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向日葵


いつだったか、母は私の誕生日に小さな向日葵を花束にして贈ってくれたことがあった。

私の年の数の向日葵を束ねた花束は、黄色と黄緑色の包装紙で綺麗にラッピングされて、なんとも明るく豪華だったのを憶えている。「陽に真っ直ぐ向かって夏の日差しにも台風にも負けない向日葵は、私の中での貴方のイメージ。自分の信じることに向かって強く真っ直ぐ生きていこうとする貴方が、時々羨ましい」そう言って笑っていた。「貴方のような生き方を、私もしてみたかった」そう言われて、そんな風に思っていたのかと内心ひどく驚いた。

そんな母は自分を「カスミソウ」に例えていた。庭で薔薇を育て、薔薇をこよなく愛していたはずなのに、娘を向日葵にたとえ、自分をカスミソウに例えた母の中に、どんな思いがあったのだろうと思うことがある。その意味を母は語らなかった。だから私も聴かなかった。今となっては聴くこともできないのでその真意はわからないままだけれど、聴かなくてもわかる気がしている。たぶん当時の私もそうだったのだろう。

次に訪れた母の誕生日、私はカスミソウを花束にして贈った。花屋のカスミソウを全て買い占めて、両手で抱えるほどの花束にして。薄桃色の包装紙に包まれたカスミソウは繊細で可憐なのに豪華で、淡雪みたいに美しかった。「お母さん、カスミソウも素敵ね」そういった私の祝いの言葉に泣き笑いした母の顔を、私はきっと忘れない。

それぞれの生活が滞りなく流れているのを、どこかで見ているだろうか。母が逝ってしまってから、家族で集まる機会はめっきり減ってしまった。それでも、それぞれが思い出したように海へ向かう。波のまにまに、面影を探して語りかけたくなるのかもしれない。生きる時代も生き方も母とは違う私の人生だけれど、この先待ち受けている様々な事象の中でも、陽に向かって真っ直ぐ顔を上げる向日葵のようで在りたいと、切に思う。


夏を迎えて風に揺れる向日葵を見るたびに、私を向日葵のようだと言った母を思い出す。
いつの間にか、向日葵は母を想う花になった。

今年もお盆が過ぎていく。
また来年。



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憧憬


私の母は少し変わった人だった。

家と幼なじみと両親が世界の全てだったころは気付かなかったけれど、今思うとなかなかユニークな人であったと思う。私は幼いころ「魔女」になりたかったのだけれど(箒に乗って空を飛びたかった)一時期、私は母が魔法を使えると信じて疑わなかった。これはたぶんに母のせいでもある。

母は自然の力をまるで自分が動かしているかのように語る癖があった。確かに出先で雨が降っても、まるで母を避けるように雨が止んで濡れることが無かったし、暑いと言えば空に向かって風を呼び、母が怒るとそのあと地震が起きた。嘘や隠しごとをしても全てお見通しで、子供の中でのちょっとした冒険や悪戯をするときには、どこにいても母が見ている気がしたものだ。

今なら子供の幼稚な隠しごとなど手に取るようにわかるだろうと思えるし、偶然でしょうと片付けられる事象なのだけれど、子供からしたら驚きの連続だったわけで、母もそれを肯定して憚らない人で、もうなんだか本当に怖くて憧れていた。そう。私はどこかで母に憧れていたのだと思う。

いわゆるお嬢様育ちの母は、服も趣味も身の回りのものまで全てにおいて、母の感覚にかなった美しいもの、品のいいものだけを好んで揃えていた。無駄なものは買わなかったし、もともと持っていたものも多かったけれど、当然そういうものは高価でもあったりするわけで、当時の父が平均より少し稼ぎが良かったとしても、傍目にはかなり散財する女性に見えていたのではないかと思う。

思い返せば、その美意識を対人関係にまで求めるような人だった。間違っていることをそのまま曖昧に飲み込むことのできない、どこか潔癖な人でもあったので、私たち子供を通しても一般的なお母さん方と友人関係が築けなかったのだろうなと今ならわかる。誰かに傷つき、何かに傷つき、その痛みに震えながら夜中に何度か泣いている母の姿を見かけたことがある。

そんなときの母の話し相手はまだ幼い私だった。当時の父は休日も仕事に奔走していて1/3は日本にいなかったし、まわりに愚痴を零せる友人もいなければ、長姉の私しかいなかったのだろうと思う。まだ年が2桁に届かない私に、母はいろんなことを語ってくれた。当時の私はそのほとんどを理解できなかったけれど、辛いこと悲しいこと、嬉しいこと楽しいこと、思い出話に母の想う世の中の理まで、まるでお伽噺のように聴いていた。

だから私は母の昔の恋バナまで知っている。今考えると親の恋バナまで知っているというのは、なかなかシュールだなぁと思うけれど。当時は一応父には色々内緒で、その「内緒」ということがまた大人扱いされている気がして、なんだか嬉しかったのを憶えている。私は母の話を聴くのが好きだった。私は母を魔女だと思っていたのだから。綺麗で器用で、いい香りのする母は私の憧れだった。

私の羨望を集めていた母は、現実ではいつもひとりだった。朗らかに笑い、草木を愛し、同じように子供たちに無償の愛を注いでくれていたけれど、なぜか母は「いつもひとりだった」という印象が強い。当時の母は食事の間中ずっと側にいて色々な話もしていたのだけれど、一緒に食事をとることはほとんどなかった。それどころか、あの頃の母が食事をしている姿を思い出せない。いつも珈琲を燻らせたカップを両手で持ち、それを少しずつ飲みながら子供たちの1日に起きたあれこれを静かに微笑んで聴いているような人だった。

「ごはんを食べないの?」と1度だけ聴いたことがある。母は霞を食べているから食事はいらないと笑っていた。仙人じゃあるまいし、そんなわけあるかっ!と今なら突っ込むところだけれど、当時の私たちは「お母さんならあり得る」と妙に納得していたように思う。だから2度は聴かなかった。それで納得させてしまうところが母らしいといえば母らしくて、母の魔女説、母の神様説は、今でも家族での思い出話になっている。

バスに揺られているとき、急ぎ足で街を通り過ぎるとき、カフェで音楽を聴いているとき、何気ない日常の中でふっと当時の記憶が蘇ることがある。そういうときはいつも、記憶は無くなるわけでは無く、私のどこかに格納されているのだなぁと思う。母が語ってくれた言葉の断片は時の流れに擦り切れて、ほとんどがその原型を残してはいないのだけれど、それでも私の中に残っていて時々意味も無く蘇ってくるので困惑してしまう。どこかで母が見ているのではないかという気分にさせられる。

思春期を迎えて反抗期を通り過ぎた私にとって、既に母は憧れではなくなっていたし、どこか反面教師とも思ったりして、かつて魔女に憧れ、同じように母に憧れていた私は、母とは違う生き方を選び、どっぷりと現実社会で生きている。そんな私を心配しつつ、母は好きにしなさいと笑っていた。

あの頃の母は少し病んでいたのではないか。そう思うことがある。人が好きで、でも人に対してどこか不器用だった母は、毎日小さく傷ついていた。小さな傷が積み重なって苦しんでいたのだろうと思う。幼い私はそこに気づけなかったけれど、今ならもう少しましな声をかけてあげられただろうか。


どうかな。
やっぱり何も言えず、黙って隣に座っているだけかもしれない。




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僥倖


台風のため、明日の夕方まで急にぽっかりと予定が空いた。

帰宅後いつも通りシャワーを浴びていつも通りPCに向かい、メールをチェックしつつ今これを書いている。明日の朝の交通は気にしなくてもいい、という安堵感から発泡酒のプルタブを折った。今はまだエンジン音と水の跳ねる音が聞こえてくる以外は案外静かなもので、時折強い風が吹き付けて何かがカラカラと音を立てている。

夜を終えるのはまだ早いと雨が囁くように窓を叩く。窓外にしな垂れる雫が部屋の灯りに照り輝き、その雨声を聴きながら少しずつ夜が沈んでいく。「何かをする」のでは無く「何もしない」という甘美で贅沢な時間。仄かに見える時の流れの中で、とりとめのない思考に沈み、仮想の街を歩く空想癖が創作に繋がっていく。
私の自由はこうした夜の底に存在する。いい夜だ。

明日は何しようかなーと少し浮かれて、わくわくが風船みたいに膨らんでいたのだけれど、考えてみれば明日締め切りという案件が残っているし、休暇前にこなさなければならないもろもろが山積の状況では、結局仕事をせねば成らぬわけで、「何しようかなー」ではなく「何から手をつけるべきかなー」という状況だったと気付いてしまい、わくわく風船はあっけなく萎んだ。しかも夜間講義予定は健在で「あります」というわけで、完全休みではないことが判明して微妙に凹む。それでも僥倖には違いない。

今朝は「台風が関東上陸」とTVの中で声高に連呼していて、荒川が氾濫すると銀座まで水没するとか、帰宅時間は大混乱だとか、深夜と朝には交通機関が麻痺するとか、苛辣に脅され続けて家を出た。その時点では明日のために前乗りした方がいいだろうかと思っていたので、そこはもう有り難い限りなのだけれど、惨憺たる災害シュミレーション映像を見るにつけ、行くも行かぬも自己責任だぞと念を押されているようで、災害に遭う前から暗澹たる気持ちにさせられる。

こういう時は悲しいかな、社会に組み込まれている社会人というものは、仕事都合で外出しなければならないわけで(現代社会で「そんなもん休んじまえよ」と本気で豪語するような無頼漢はお引き取り頂くとして)勝手に休むという選択肢は無いに等しい。だから個人よりも企業に働きかけてくれないかといつも思う。

かといってみんながみんな本気で休むという選択肢を行使するならそれはそれで大混乱な訳で、今日も人の世の命綱と社会を回す仕事で奔走する方々に感謝して夜を終えよう。

お仕事の皆様、どうかお気をつけて。



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打上げ花火



遠くで花火の打ち上がる音がしていた。

身体の底に響くような音に惹かれてベランダに出る。ひゅるりと打ち上がる音、ぱっと花咲く音、そして微かに聞こえるぱらぱらと散りゆく音。確かにここまで聴こえるのに、目を凝らしても空は伯林青色の闇のままで観ることはできなかった。観に行きたかったなぁと少し感傷的な気持ちになる。まだチャンスはあるかもしれないけれど。

SNSには夏らしい動画が数多く上がっていて、打上げ花火もそのひとつなのだけれど、画面の向こう側で記録された花火は少し味気ない気がしてしまう。打上げ花火は、風に揺り流れてくる火薬の匂いや喧噪とともに、刹那的な光と音を直に楽しむ方がいい。

季節の風物詩をいいなぁと思いつつも、私はそれをうっかり逃してしまうことが多い。目的地まで高速をひた走るうちに、可惜目印を通り越してから「しまった」と後悔する感覚に似ている。1日、ひと月、1年と、時の流れは等しく同じはずなのに、子供の頃とは体感が全く違うように思う。ぼんやりしていると移り変わる季節に取り残されてしまう。

人はジャネの法則から逃れられないのだろう。でも科学的に解明されていないだけで、加齢に呼応してデッドラインへの加速装置が作動する仕組みがあって、実はDNAレベルで組みこまれているのではないかと思うことがある。だとしたらしかたないなと納得できるのに。

そういえば最後に逢ったのは5月だったなと思い出して、父に連絡を入れた。少し前に近況を尋ねるmailをもらっていたのだけれど、その時点でははっきりした休暇予定がわからなくて、そこには触れずにさらりと返信した。いつも待ち構えているのだろうかと思うほど父の返信は早いのだけれど、それだけ交流が減っているのかもしれないと思うと遣る瀬ない。世代的にmailが不得手な父のつたない文章から、約束を喜ぶ想いが透けて見えてなんともいえない気持ちになった。

そういう親の想いを私はすぐに忘れてしまうのだけれど、肺癌の治療を拒んで緩和を選択した父との時間はそう長くない。刻々と近づいてくる期日を後悔で終わらせたくないなぁと思う。せめてもう少しまめに連絡を入れよう。


ベランダから浴衣を着た人の流れが見えた。
振り返った今日が、彼らにとって楽しい思い出になっていることを密かに願う。



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矜持


「いい加減は良い加減」と誰かが言っていた。誰か忘れたけども。

私は自分をいい加減だなーと思っている。自分の中にある「いい加減さ」を認めている。「譲れない」部分に踏み込んでくる場合は、徹底して許容できる部分まで落とし込めるように話し合うのだけれど、それ以外はけっこう平気でいい加減だったりする。一線を越えない限りはどうぞどうぞと平気で譲れる。どうでもいいことに労力は割けない。それだけのことなのだけれど、だからいつも「いいですよ」と言ってくれると思われているならば、随分短絡的過ぎでは無いかと思う。

私の中では「どうしても譲れない」という線引きが明確にあって、仕事であってもそこだけはブレないように気をつけている。以前、打ち合わせの場で「そこは譲れませんよ」と絶対に引かない私を知ってびっくりされたことがあった。どうやら私は非常に沸点の低い、柔らかい人だという認識が広がっているようなのだけれど、誰にでも譲れないことがあるのは当たり前のこと。

もちろん最初は、というか今でも色々なことがあるし、憤ることも凹むことも多いけれど、こればかりは仕事なのでどうしようもない。だから「ここは言わなければいけない」と思うことを黙っていることはしない。拗らせてもいいことは無いので、タイミングを図ったり、笑顔を添えることは忘れないようにしているけれど。

失礼を承知で言えば、大先輩であっても自身の培った知識と経験に溺れて本質を勘違いしている方もいる。その場合、たいてい自尊心を満たすためだったりするので困る。数の力で、あるいは牽制という意趣返しで言うことを聞かせようとする、偏狭で妄動的な相手に迎合してはいけない。自身の矜持と根幹にかかわる部分は譲ってはいけない。そこを譲ってしまったらきっと色々なことがブレてしまう。それがわかっていて引くことはない。

当然相手にもそういう一線はあるだろうし、今までも引かないためにその場が険悪になったことすらあった。それこそ一回り年上であっても子供のいじめように無視をしてみたり、嫌がらせをしてくる人もいたりする。そういう場合、憤りつつも私はたいてい心の中で笑ってしまうのだ。底が知れる、そう思って。そんなときの私の笑いを冷静に想像すると、自分でもちょっと怖い。

だからといって自身が狭量な人間になってもいけないと思う。自分本位になりすぎていないか、仕事へのプライドと個人的な自意識や自尊心とを勘違いしていないか。意見を交わす前に私は必ずそのことを反芻する。人がひとりで考えうることには必ず限界があるもので、意見を交わせるということは喜ぶべきことだと思っている。自己は他者の中で確立する。自分の中に無かった意識や経験に共感できることも多い。

私は付き合いのある業界の先生方の中で、年齢的に言えば下から数えた方が早い若輩者なのだけれど、意外と好きに仕事をさせて頂いている。自意識と自尊心の高い方が多い世界でやっかいでもあるが、基本的に教え好きな方々なので助けていただくことも多い。これにはもう感謝しかないなーと思う。本当に。

私はどこに行っても器用に立ち回れると思われているのか、それを羨ましいと嘆く人も一定数いる。私のまわりには年齢や見た目のために侮られると嘆く人も数人存在する。若さは悪いことでは無いけれど経験不足というイメージや侮りを生むようで、一般的な仕事はどうかわからないが、仕事柄か武器にならないように思う。良かったと思うべきか、残念と思うべきか悩むところではあるけれど。

そういう人はたいてい、本人の実力以上に自尊心が高い。ある日の午後、泣くほど悔しいのだなーと見ていたことがあった。個人的には侮られてもいいじゃん、とは思うけれど。いやなら戦えば?とも思う。泣くほど苦しんでいる人を前にしてそう言い放つほど鬼では無いので黙っていたけれど。

自分の存在を守りたいなら、居場所を守りたいなら戦え。周りから「この人けっこう面倒くさいぞ」と思われるかもしれないけれど、面倒くさい人の方がいいと思っている。それが一線になる。自分が譲れない一線を矜持として持ち続けていられるなら、侮られたかどうかなどということは些末な事象にすぎないでしょう。泣けばいいし、悔しがればいい。それが力になることもあるし、力にしていけばいい。大丈夫。誰でもそのうち年を取る。


しなやかに、したたかに。これからもよろしく。



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占い

女性は本当に占いの類いが好きだなぁと思う。

少し前、打ち上げに参加した。仕事仲間と卒業生で総勢20名ほどだったかと思う。一応、主賓の1人だったわけだけれども、仕事で少し遅れて会場に着いた私のせいで乾杯がやり直しになってしまった。まさか1人1人全員とグラスを合わせて乾杯する羽目になるとは思わなかったけれど、冒頭からみんなのテンションが高く、なかなか面白い会だった。

お酒も入って和やかな時間が1時間ほど過ぎたころ、20代の女子がわちゃわちゃと集まって奇声を発しはじめ、何ごとかと思って聞いてみたら「動物占い」なるもので盛り上がっていたらしい。凄く当たるんです、と誰かが興奮気味に説明してくれた。私は「○○占い」というものをあまり信じないタイプなので、自ら占うことはないし、自ら占ってもらいに行くこともないが、女の子たちが楽しそうにしているのを見るのは目に楽しい。だから楽しそうだなー良かったなーと他人ごとのように思っていたのに、いつの間にかわらわらと取り囲まれて占われる羽目になってしまった。

どうやら生年月日で検索する占いらしく、私の占いを敢行して盛り上がっていく。占いの結果は概ねいいことが書いてあって、まぁ確かに当たってるねということも多かったのだけれど、生徒たちが爆笑しながら「やっぱり!」「確かに!」「ウケる!」「わかる!」と連呼していて、占いの結果もさることながら、「そうか、私はみんなにそう見られていたんだな」とむしろその反応の方に思わず笑ってしまった。楽しそうでなにより。

動物占いには最後に職業診断というものがあるらしい。余曲折を経て常々今の仕事が「好きだ」「天職だ!」と公言しているので、今更自分に合うという職業を提示されても困惑しか無いので占う必要を感じなかった。今の仕事に就く前の、今に繋がる前職もなんだかんだあったけれど「天職!」と思っていたのであまり当てにはならないが、苦しいことも嫌なことも傷つくこともひっくるめてやっぱり好きなんだなぁとしみじみ思っている。

そんな私の考えは酒と女と若さというパワーの前では無力に等しいので、心の中で呟くに留めておいた。いつの間にか人だかりができていて、案の定、結果を読み上げる楽しそうな奇声が上がっていたのだけど
「先生、不向きな職業に『教職』って書いてあります」と笑われた。
…おぉい。


やっぱり、○○占いは信じないに限る。



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夏祭りと星の空

今日は満月。でも案の定、東京で星は見えない。

私は人生の大半を東京で過ごしているせいか、夜空を見上げても見えるのは月ばかりで星空にはあまり縁がないのだけれど、昔見た家族旅行先の星空は今でも鮮明に覚えている。

私が16歳になる年の夏に行った家族旅行。当時とにかく旅行が好きだった両親には、本当にあちこち連れていかれた。もともとアウトドアに興味が薄く、すでに夏の海に行ってさえエアコンの効いたカフェで過ごすほうが好き、といったあの頃の私の感情を考えると、無理矢理連れ回されたといった方がいいかもしれない。

あの夏に立ち寄ったのは山の上の小さな民宿。「自然を満喫する」といえば聞こえがいいけれど、少し開けた広場のまわりに見えるのは深い森ばかりで、蝉の声だけが五月蠅いほどこだまする、本当に何もない民宿だった。両親がどこをどう探してあの民宿を選んだのかは今でもわからない。とても旅雑誌に載るとは思えないから、誰かの紹介だったのだろうか。

車を走らせて家族5人で出かける間中、私は車中でずっと寝ていたと思う。もともと車酔いの激しい方だったし、あり得ないと思うほどの長距離走行で、騒ぐ気力どころか返事をするのさえ億劫なほどぐったりしたのを憶えている。深い森を抜けてついた先、2泊の予定で泊まった鄙びた民宿。まさか今の年になるまで記憶に残るなんて、旅の始まりには思いもしなかった。

高校生にして既に日焼けを天敵と目の敵にするぐらい太陽を避けていた私には、妹弟のように外ではしゃぐこともできず、庇の影に隠れるようにして、張り出した縁側に座って外を眺めていた。そんな私を可哀想に思ったのか、はじめは民宿のおじいさんが声をかけてくれた。おじいさんはまさに好好爺を絵に描いたような人だった。大好きだった祖父を亡くしていた私は、おじいさんを気に入っていたのだけれど、暫く話した後に、夏の時期だけ泊まりがけでバイトに来ていた男の子に私の相手を頼みはじめて驚いた。

たぶん年が近いから、と思ったのだと思う。年が近くても、いやむしろ年が近いからこそ、その年代で性別が違えばかえって気まずいものだなんて、好好爺の与り知らないところだろう。あのぐらいの年の好好爺からすれば、5歳児も16歳もたいして変わらないのかもしれない。親切過ぎてたぶんそんなことには気付いていない。にこにこ笑顔の好好爺の隣で、お互いぎこちなく挨拶を交わしたのを憶えている。それでも炎天下の中、あれだけ日差しを目の敵にしていた私がその子と並んで歩いたのは、ちょっと…かなりかっこよかったからに他ならない。呆れるほどげんきんなものだと自分でも思う。

彼は1つ年上で地元の高校に通っていた。土地柄なのか、素質なのか、都内ではなかなか見かけないと思うような真っ直ぐに優しい好青年だった。地元のせいか森の中での楽しみ方も詳しくて、私が(彼からすれば)かなり都会の女の子だと気を遣ってくれたおかげで、森の中の散策はとても楽しかった。自然の中で自然に親しむなど、私の辞書にも日常の中にもないことで、あれもこれも新鮮で、教わるたびに驚く私のあまりの無知ぶりに彼もちょっと楽しそうだったのは気のせいだっただろうか。夜の帳が降りる頃にはかなり親しくなっていたのだけれど、バイトの身の彼は夕食やらなんやらの準備に駆り出され、私は家族の元に戻った。夕食は山の幸を使った地のもので、食事はとても美味しかったと記憶している。

翌日「今日は夏祭りがあるよ」と好好爺に教わっていたけれど、やっぱり日中は特にやることがなかった。もともと何もない民宿であったし、アウトドアは苦手なのだから当然といえば当然だ。川遊びに繰り出す家族を尻目に、私は相変わらず縁側に座っていた。手持ち無沙汰な私を気にかけてくれて、彼は翌日もバイトの仕事の合間に話しかけてくれた。

あたりが夕闇に包まれる頃、ぽつりぽつりと提灯に灯りが点り、地元の小さな夏祭りが催されていく。広場の中央に組まれた簡素な櫓のまわりを、町の人がゆっくりと練り歩きながら踊る。手作りの質素な屋台に群がる小さな子供たちの笑い声、お囃子の音、焼き鳥に焼きそば、ラムネ、あんず飴。

バイトだった彼も夏祭りは参加できるようで、誘われて彼と見てまわることになった。とはいっても、見渡せるぐらい小さな祭りではあったのだけれど。意味不明の小言をぶつぶつと言う父のそばで、何故か母が楽しそうに笑っていたのを憶えている。私と遊びたくて纏わり付く弟を執拗に引き剥がして、何故あんなに母が楽しそうだったのか、今の私ならよくわかる。恋愛未満のぎこちない高校生2人を見ていたら、今の私でも同じことをするだろう。私の観察癖は遺伝子レベルで母譲りであったのかと、今更気がついてちょっと愕然としている。

祭りの後、片付けに奔走する大人たちから離れて、椅子代わりに置かれていた丸太に腰をかけ、何度も無駄に呼びに来た父を華麗に無視して、ずいぶん長いこと話していた気がする。

祭りの灯りが消えた後、かなり山奥にあったその民宿で見上げた星空は、零れそうなほどひしめき合っていた。「星が降るような」という表現が実感として理解できた瞬間。地上には背にした民宿から零れる灯りだけで、遠くに見えていたはずの森の木々さえ、夜に溶け込んでその輪郭も判別しずらいほどの漆黒の闇の中に浮かぶ星たちは圧倒的だった。息を呑むような美しさを目の当たりにして感じたのは、少しばかりの恐怖。

足下も覚束ないほどの夜の闇の中、民宿までの短い帰り道、彼が手を引いて歩いてくれた。宿の出入り口で手をつないだまま、暫くたわいもない話をして、おやすみなさいと互いに声をかけてその日を終えた。帰路につく車中で「楽しかったでしょ?」と声をかける、私より楽しそうな母の声に、素直に頷けない程度には子供だったころの記憶。


小さな祭りの後に見上げた零れる星空と共に憶えている、淡い夏の思い出。


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遺却

日記を書くという行為は、内省に適しているように思う。

混同されるかもしれないけれど、私は内省と反省は違うと思っている。どちらも自分の過去の言動や在り方を省みることであるけれど、内省は自己観察であって、結果的に反省をすることがあっても、もっと前向きなものだと解している。誤解のないように、そして自己への戒めとして先に記しておく。

先日の雨の日からまた珈琲癖がついてしまった。こうして夜中に言葉を綴るせいかもしれない。そろそろ「せめて牛乳を入れなさい」と空から声が降ってきそうなので帰りがけに牛乳も買ってきた。珈琲用のミルクと違って牛乳は温めないと珈琲の温度が下がってしまうので、レンジで少し加熱してから注ぐことにしている。帰宅途中でメープルシフォンケーキなるものを見つけたので、散々迷ったあげく、1ピースだけ購入した。添えるための生クリームを探して追加購入。毎度のことながら食べ物に対してひと手間を惜しまない私は、どれだけ食い意地が張っているのだろう。

以前「優芽の樹」の記事にも書いたけれど、約2週間後に手術の決まった母から紅茶のシフォンケーキを頼まれたことがある。あの記事は母が亡くなって半年ぐらいで書いたもので、まだ上手く消化できない想いを言葉にして昇華しようとしていた気がする。そのせいかかなり不安定で、読み返すと痛々しい程の悔恨がみてとれる。ずいぶん感傷的だなとひとごとのように思うけれど、あの感情は紛れもなく私の中にあったものなので、それはそれで必要だったのだと思うことにして消すことはしないでおく。

当時すでに古すぎて製菓には全く向かない自宅オーブンをなだめすかし、2度焼こうとして2度とも失敗した。結局実家には持参できなかった。「また今度」という約束は宙ぶらりんのまま今に至る。最後は小さな親子喧嘩をして帰省が終わった。

前日から母の元に駆けつけた妹弟と違い、仕事を言い訳にして手術時間ギリギリで駆けつけ、たいして話もできずに見送ったあの日、母は手術が終わってから1度も目覚めないまま亡くなった。約束を果たせないまま亡くなってしまった。今日会えた人と明日も会えるという保証なんてどこにもない。「また今度」が必ず訪れるとは限らない。未来の約束が果たせるのは当たり前ではなく、限りなく幸福なことなのだとあの日母に教わった。最後に見た、手術室のドアを抜けていく母の顔が笑顔であったことだけが救いとなっている。

最後の頼みを聞いてあげることができなかったという罪悪感で、最初の数年間は食べることもできなかったシフォンケーキ。今は美味しく頂けるけれど、やっぱり自分で焼く気にはなれていない。新しいオーブンを購入してもなお、そのうちそのうちと思いながら気がつけば6年も経ってしまった。もはやトラウマになっている気もするけれど、食べられるようになっただけでも進歩だよなーと誰に対してなのかわからない言い訳をしながら、いまだなんとなくそのまま放置している。ジャンプの前に必要な前屈のように、シフォンケーキと向き合うキッカケを探しているだけかもしれない。

人は忘れる生き物なので、不可逆的な時の流れの中で記憶を徐々に薄れさせていく。その喜びや痛みを忘れないようにきつく縛り付けたとしても、掬い上げた砂が指の隙間からこぼれ落ちていくように記憶は風化され、美化され、記憶の彼岸に格納されてしまう。それは時に寂しいと感じることではあるけれど、だからこそ人はまた1歩を踏み出すことができるのだと思っている。その感情を忘れたわけではないけれど、しがみつくわけにもいかない。

かつて歩いてきた過去の中の事象全てにおいて、強烈な感情を当時のまま思い返すことができたとして、それを忘れずに抱えて生きていくとして、人はそれに耐えられるだろうかと思う。喜びに満ちた至福のひとときと、悲しみや苦しみに喘ぐ惆悵の記憶を当時のまま鮮やかに思い返せるとして、清福な思い出は怨毒の感情に勝ることができるだろうか。溢れる感情に溺れて身動きが取れなくなってしまうのではないだろうか。

「記憶や感情を徐々に忘れていく」という機能を失ってしまったとしたら、人としての他の機能まで奪われてしまう気がする。水は流れるから清洌でいられるのであって、留まってしまったとたんに濁り、澱み、腐敗していく。当時の感情に留まっていたら、結局はその記憶も感情も心まで澱み、変質してしまうのではないだろうか。忘れていくことは悪いことばかりではないと思う。少しずつ擦り切れていく記憶のおかげで、私はまたシフォンケーキが食べられるようになった。きっとそのうちに焼くこともできるようになると思っている。
いつかきっと。


忘れることを人間に標準装備してくれたとするなら神様はけっこう優しいと思う、と誰かが言っていたのを思い出した。確かに、私もそう思う。



★紅茶のシフォンケーキ12,29★
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弄月


珍しくほろ酔いで、ふわふわとしながら文字を綴っている。

ちょうど土日にあたるので多くの人はやり過ごせるだろうと思うのだけれど、週末もがっつり仕事の入っている私は、今から公共機関の遅延に慄いている。朝のニュースを見ながら「まじかー」と人ごとのように呟いてから仕事に出た。週末は関東に台風上陸らしいです。

今日の夜は新規クラスのスタート日だった。仕事に関していえば私に「物怖じ」という言葉は存在しないのだけれど、そんな私でも初日は少し緊張する。ここ数年、夏は夜間にクラスが始まるので、とうとう来たなー始まるなーと少し憂鬱になった。暑いからだ。と夏のせいにする。日中の仕事からの移動中に頭の中で授業を組み立てておく。何年やっていても毎回同じという訳にはいかず、今日はいい感じだったなぁとか、ちょっと失敗したなとか、自分の話術と手腕に一喜一憂するのだけれど、蓋を開けてみれば全てが杞憂に終わり、なかなかいい雰囲気でスタートを切った。

時々、授業は生き物みたいだなぁと思うことがある。講義の構成は講師の仕事であるのだけれど、ライブ授業は相手との関わり方によって進行に影響が出るものなので、互いに乗せて乗せられて進行する授業は面白くなる。初日はその雰囲気作りに9割のエネルギーを注ぎ込んでしまう。子供は正直で楽しいことに敏感なので、ある意味恐ろしくわかりやすいのだけれど、大人の好奇心だって捨てたもんじゃないと思う。子供ほど自由に上手く引き出せない程度に年を重ねて固まってしまっただけで。互いに初顔合わせで様子を伺う固い雰囲気を払拭できるか。まずは緊張をどう取り除くか。いかに笑顔を引きだすか。集中と視線を集められるか。
それが上手くいけば今後は多少の無茶ブリも許されるってもんです。

人に個性があるように、授業進行にもそれぞれ講師の個性がでるのだけど、私はアカデミックなタイプではないので、少しくだけた雰囲気の方がやりやすい。講師と生徒となれば、講師は圧倒的な強者で知識を切り売りする仕事ではあるけれど、授業は人と人が絡んで作り上げていくものだとつくづく思う。今日は上手くいった、と思いたい。久々に充実した初回だった。ほんとありがたい。

帰宅途中、いつもの駅でふいに空を見上げると、薄雲の間からまん丸の月が顔を出してこっちを見ていた。きらきらと眩しい太陽よりも、どうやら私は月に惹かれるようで、空を見上げるのは圧倒的に夜が多い。この間まで「夏は痛い」なんて言っていたのに、夜の東京は暑くもなく寒くもなく、嘘みたいな気候の変化には戸惑ってしまう。夏も夏バテしたのか?とかなんとか相変わらずしょーもないことを考えて月を追いかけながら帰宅した。

あまりにもいい季候なので、帰宅してシャワーのあと、珍しく缶ビールなんぞ持ち出してベランダに出た。明日からのあれやこれやは見ないふりをして、音楽を聴きながらビール片手に月を見上げ、なけなしの自由を満喫する。このままそろそろとベッドに潜り込んで寝ているうちに、どこぞの国の妖精が繁雑なあれこれを全て仕立ててくれないだろうか。お礼にお菓子を差し上げましょう。
この際、ちっさいおっさんでもかまわない。




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左利きは右利きより寿命が9年短いらしい。

それはなんの呪いだろうかと考えて、確かに世の中の仕様はえげつないほど右利き用にできていることを思い出し、体にも心にも負荷がかかっているということかと妙に納得する。呑みの席でそんな話が出ると必ずといっていいほど、どこが?何が?と返されるのだけれど、「それが右利きだということだよ」という言葉を投下して笑ってしまう。言葉を集めてあれやこれやと論うことはできるのだけれど、生まれてから付き合っている利き手を今更変える必要性自体をすでに感じてはいない。

酒好き、酒飲みを左利きともいう。大工が「のみ」を持つ手が左手であることから「飲み手」にかけて酒好きとは、よく考えるなぁと思ったのを憶えている。先人たちの考えた言葉遊びは嫌いじゃない。猥雑なものも含めて時に粋だなぁと思ったりする。今ならネットスラングのようなものだろうか。媒体が変わるだけで今も昔もあまり変わらない。私は左利きだが左利きではない。…連ねるとなんのことやら。

通常は左利きと聞くと、人は器用であったり芸術に優れていたりという、どちらかというと憧れるに足るイメージを持つらしい。実際に私はクラスに1人はいる「絵が上手いと言われる子」であったし、「なんでも器用にできる子」と思われていたようなので、今まで1億回以上言われた気がする。「限定」という言葉に商品の価値を底上げする心理が働くのと同じように、単なる稀少価値的な意味合いで羨ましいと言われることもあるように思う。

まだ幼稚園に行くか行かないかの歳の頃、練習のために私の書いた文字をはじめて見た母が感じたのは焦りだったという。母の手本を横に置きながら練習した自分の名前は、全くといっていいほどでたらめな文字に見えたらしい。何度書いても同じように書けず、私ほどネットが簡単にできる環境にはいなかった母がどこぞの伝を頼って調べたのか今となってはわからないけれど、有名な誰かに確認したその文字は「逆さ鏡文字」というものだったと言われた。

逆さ鏡文字は、文字を合わせ鏡のように反転させ、さらに上下を逆にするというもので、器用なのか不器用なのかわからないその不可思議な文字を目の当たりにして、「この子の目に世界はどう映っているのだろうと思っていた」と笑って話してくれたことを思い出す。笑い飛ばしてはいたけれど、当時ははじめての子に、なにかしらの障害を疑っていたのだろうと今でも密かに思っている。

私の親の世代までは「左利きは矯正するもの」という慣習が根強く残っていたらしいけれど、私の子供の頃はすでにその慣習が薄まってきた時期だったと思う。小学生の頃はクラスに左利きが4人ほどいたし、それを咎める大人はいなかった。ただどの世界にも前時代的な人はいるもので、私がまだ小学1年のころ「お箸を持つほうが右、お茶碗を持つほうが左」という言い回しで左手と右手を教える教師も存在していた。

あれは確か運動会のための練習だった。見事に左右を間違える私はクラスの誰よりも真剣に耳を澄ませてその声を聞き、号令に合わせて右手と左手を挙げたけれど、けっきょく1度も合わずにその日を終えた。他にも左利きがいたにもかかわらず、合わないのは私だけだった。何故自分はできないのかわからなくて、悔しさと恥ずかしさで混乱したことを憶えている。

母に相談してはじめて自分が左利きであることを知った。知っていた「左利き」という自分をはじめて意識したといったほうが正しいかもしれない。自分ではどうしようもない理由であったし誰のせいでもないのだけれど、私と友達は違うのだと強く意識した記憶。それから寝るまでの間、真剣に考えて導き出した答えが「お箸を持つほうが右、といわれたら左、お茶碗を持つ方が左、といわれたら右」であった。今思えばかなりテンポは遅れがちだったけれど、この回りくどい呪文を編み出してから毎日唱えて何度も何度も練習を重ね、こっそりと友人たちに紛れ込んだ。

いまだに左右を咄嗟に判断するのが苦手なのはその頃の記憶のせいかもしれないと思うことがよくある。道案内をするとき、左右を人に説明するとき、今でも私は利き手をぎゅっと握りしめてしまう。こっちが左、と言い聞かせるように。四角い画面の向こう側で、他人には些末な、でも当人にとってはとても重要な命題を抱えて惑う人の微かな悲鳴を見つけるたびに当時の自分を思い出す。

そういえば人の世では人口の10%が左利きだそうだ。戦争があっても人口が増えてもこの比率はほぼ変わらないらしい。この話をどこかで聞いたとき、まるで「働き蟻の法則」のようだと思ったのを思い出した。全体の2割の働き蟻が残り8割の食料を集めてくるという働き蟻の法則。実際はよく働く蟻を含めた全体の8割しか働かず、2割はずっとサボっていて、よく働く2割を間引くと残りの8割の中から自然と2割が働き蟻に変わり、2割はやっぱりサボったまま。でもサボっている2割を集めるとその中から2割が働き蟻に変わり、全体の8割は働き出すらしい。自然の作り出す不可思議な法則は時に不条理で人間ごときに解明できないところが哀しくも面白いのだけれど、常に10%の左利きは働き蟻だろうか、それともサボり蟻だろうか。

信頼に足る有能な人物を「右腕」というので「左腕」は?と調べたことがあるが見つからなかった。「右」という字には「優れたもの」という意味もあるのだけれど、右が上座であった時代に右の理屈に合わせるのは、右利きが多数を占めていたためではないだろうかと思っている。すでに左利きということは私のアイデンティティの一部になっていて、それを負に思うことはないのだけれど、どうやら私は手だけではなく、耳も目も左利きらしいとわかったときは少なからず驚いた。

左利きは右利きより寿命が9年短いとするなら、目も耳も利き手も左の私は20年ぐらい寿命が短いのではと思うのは短絡的すぎるか。それが私の寿命であるとするなら、それはそれで仕方が無いのかもしれないなとも思う。それにしても私は人生の中でどれだけ左に頼って生きてきたのだろう。
私の相棒は左。絵も文字も料理も、私の好きなことは全て左手が紡いでくれるものだ。

私が信頼に足る有能さを表すなら「左」ということになるのかもしれない。



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